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 『北海道の地名』山田秀三著

アイヌ語地名の研究 別巻

■山田地名学の集大成。最高のアイヌ語地名辞書――アイヌ語地名は、先住民族アイヌの貴重な文化遺産である。 アイヌ語地名研究の第一人者である著者が、半世紀にわたって北海道全域を現地踏査し、旧記・旧図などをもとに、2000余項目の地名の語義、由来を解き明かした北海道地名解の決定版。

ISBN4-88323-114-3 C1525 A5判592頁 2000年刊 定価 本体6,000円+税

                本書の序文

 北海道の地名の主なものは、殆どがアイヌ語系のもので,それが北海道のき わだった地方色であり,独特な風趣を漂わせている。北海道で生まれ育った方々 は,それに慣れきっておられて,何でもないことと思われるかもしれないが, 内地から北海道に来られた方が,少し歩いて地名に触れられたなら,おやと思 われるに違いない。かつての私もその一人なのであった。
 昭和の初年に,初めて憧れの北海道に来て,登別,苫小牧を通って札幌に出 た。そして月寒(当時はツキサップ)や真駒内の牧場に遊んだりしたが,東京 育ちの私は,東京で慣れていた渋谷だの千駄ヶ谷だのという地名の音と全く違っ た美しい音の,札幌とか月寒とかいう地名にすっかり魅せられてしまった。北 海道庁に行って友人に聞くと,アイヌ語の地名だからだろうよという。
 戦後すぐから北海道で仕事をするようになり,それから30何年もたって,自 分では半北海道人のつもりでいるようになったが,いつまでたっても北海道地 名への愛着は変わらない。いや覚えれば覚えるだけ興趣を深くするのだった。 内地で慣れ育ってからの半北海道人だから,それをはっきりと感じるのかもし れない。
 アイヌ語は母音も子音も日本語と殆ど変わらない,親しみ深い言葉であるが, 当然のことながら音の配列が違う。例えばp音やr昔が多いし,子音で終わる 音(閉音節)も少なくない。一例でいえほサッ・ポロ(sat-poro 札幌)のよ うな形である。それらが何となく美しい,エキゾティックな風韻を感じさせて くれるのであろうか。
 とにかく一般和人の知らない言葉の地名なので,古い徳川時代の旅行者たち も関心を持ったようで,彼等の旅行記には,多かれ少なかれ地名の語義が書か れて来た。
 昔は,入口の地方等の僅かの地名は別として,だいたいの地名は平仮名か片 仮名で記録されて来た。アイヌ社会には文字がない。和人がその音を聞いて仮 名書きする際に,若干の訛りがあり勝ちだったのは止むを得ない。
 幕末から明治にかけて,それらを二字か三字ぐらいの漢字で書くようになっ た。そうなると中々巧い字がない場合が多い。札幌のように上手に字を選べた ものは別として,多くは若干似た音の字を当てる。そして後には,その漢字が, 普通に読む形に呼び変えられて行った。例えば室蘭は,最初はその字を当てて, モロランと呼んでいたのだが,いつのまにか「むろらん」となってしまった。
 月寒(ツキサップchikisap)だって,寒が読みにくいので,「つきさむ」になっ たのはつい近年のことである。現在我々が使っている漢字地名とその読み方だ けで,アイヌ語時代のその原形を知ろうとしても容易にできることではない。  幸いに,徳川時代から何人かの先輩がそれらの多くを仮名書きで書き残して 置いた。例えば元禄郷帳(1700年)がある。また秦檍麻呂の地名考(文化5= 1808年)や上原熊次郎の地名考(文政7=1824年)があった。幕末の松浦武四 郎や明治の永田方正は何千もの地名記録を残して置いてくれたのであった。ま た私たちが勉強を始めたころまでほ,アイヌ語に詳しいアイヌ系の古老も若干 は残っていて、相当を学ぷことができた。
 だがそれで地名の語義が分かるかというと,実は容易なことでない。アイヌ 語は一つの言葉にいろいろの語意を持ったものも多いし,また似た音の言葉も 少なくない。方言差もある。またアイヌ時代に使われていた地名であっても, 年代を経て,既に相当訛っていたらしいものもあるのだった。
 アイヌ語地名を使い出した人たちが,どういう意味でそう呼んだかを書いた 由緒書きがあるわけでもない。今我々が触れる地名解ほ,全部が後の人の想像 説なのであった。せめて,古いアイヌ時代の人たちが,それをどう理解してい たかを知りたいと,誰でもがそう思うのではなかろうか。
 永田方正が彼の有名な北海道蝦夷語地名解(明治24年刊)を書いた時代には, まだ多くの人々がアイヌ語で生活していた。アイヌ語に詳しい彼は,それでも 「地名を解せんとせば,必ずその地の故老アイヌに質さざるを得ず。地名の原 語は唯故老アイヌの頭上に在て存するのみ」と書き,現地アイヌの説をできる だけ聞いて書いたのだという。この点は古い秦檍麻呂でも,上原熊次郎でも, また松浦武四郎でも,同じである。
 ところが同じ一つの地名であっても,今それらの諸先輩の書から,書かれた 解を抜いて来て並べると,まるで違った解で,各人各説の場合が至る処で見ら れる。つまり,アイヌから聞いたといっても,同じ解が答えられたわけではな い。時代により,人によりその解が違っていたのであった。
 石狩とか十勝,雨竜といった大地名の場合には特にそれがひどい。そんな場 合,例えば松浦武四郎の郡名建議書は,「ウリウ。是は太古神が号け給ひしと言 伝へ,訳相分り申さず候」と書いた。いよいよ分からなくなると,神様が作っ た名だ。分かる筈がないじゃないか,とはよくいわれた言葉だった。これが一 番正直な答えだったのではなかろうか。

 金田一京助博士や知里真志保博士の時代にアイヌ語の研究が見違えるほどに 進んだ。そのために,同じ地名の解釈でも,現在では随分がっちりして来たこ とは事実である。だが地名は長い文章ではない。前後の説明が土地の人には自 明のこととして省かれてあるものなので,いくら地名だけの単語や語法を正確 に解したつもりであっても,それが元来の意味であるとは言い切れない。
 知里さんは無類の地名好きで,私とは親密に協力しあった仲である。始終地 名の解釈で論議を続けていたのであったが,彼は「そうだったのかもしれない し,或はそうでなかったのかも知れませんね」と慨嘆した。正にその通りであ る。地名解に自信を持ち切れることはない。
 幸いにアイヌ語地名の大部分は地形をいったものであった。また同形,類形 の地名が全道に数多く散在していることも大きな特色である。同形の地名の処 に行って見ると,その位置さえ誤らなけれほ,必ず共通な処がある。それを繰 り返していると、そこにその地名がつけられた当時の元来の意味があったらし いと考えるようになった。そんな経験は私にとっては若干の救いであった。
 とにかく地名とはその処の名前である。机上で単語を並べていただけでは始 まらない。もちろん旧記を渉猟することは大切であるが,何とか現地に行って 地形を眺め.また周辺の地名との関連も確かめ,古老を探しては土地の昔話を 聞くと,必ず何かを覚える。その上で帰って,もう一度旧記,旧図を当たり直 すと,ああこうだのかということに気がつくことも多かった。飽きもしないで 道内を歩き回ったのはそんな意味だった。

 昭和46年に北海道庁河川課の依嘱によって「北海道の川の名」という本を書 いたが,その時はお役所の年度の関係もあり,ゆっくり調べをする時間もない ので,大きい川の名だけしか書けなかった。数年後には,歩いていて目につく 程度の,その他の川の名も書き加えますよと関係者方にお話ししたままになっ ていたのが,いつまでも気にかかっていた。
 昭和56年には北海道新聞社の「北海道大百科事典」の地名部分の執筆をした が,この場合も,時間の関係で限られた地名を書くのに止めた。現場を年中歩 いて来た私としては,旅行中まずは立ち寄って煙草でも買ったような主部落と か,或は小地名でも,特に興味を持ったようなものぐらいは書いて置きたい。
 そんな意味で,目ぼしい主な地名を選んで本書を綴った。残念ながら離島や, 交通不便の若干の個所は歩いて目で見ていないが.その部分だけを抜かすのも まずいので,それらは旧記,旧図等から参考資料を並べて書くに止めたことを お許し戴きたい。
 昔からの諸説を,知っている限り全部書くことは望ましいが余りに繁雑にな る。よく読んで見ると,前からの説の孫引きのような説がずいぶん多い。それ で,だいたい同じならば,私の読んだ一番古い時代のものを代表として書き, それに後の時代の異説を並べることにして,それらの典拠を明記することに主 眼点を置いた。処々には私見も書いてあるが,それらは,調べて来た過程で, こうも思われるがという意味で,単なる参考として見て戴きたい。

 地名は,北海道の海岸を,石狩川の川口から時計回りの順に並べた。また内 陸部は,原則として川筋を川口から上流に向かっての順に書いた。地名には何 となく地方,地方の味がある。目的とされる一地名だけでなく,その前後にあ る若干の地名にも目を通して戴けたら,何か現地を歩いているような気分にな られるかもしれない。私にしても,これをまとめるのに10年,20年前の調査メ モを書架から卸し,古い写真や見取図を眺め,懐かしい北海道の山河をまた旅 しているような気持ちで書き綴っていたのであった。
 北海道地名が,我々の時代にも多く変わって,アイヌ語系の地名も消えて行っ たものが少なくない。アイヌ時代から開拓時代を通って来た歴史的地名を,内 地にごろごろある,平凡で特色もない地名に置き替えられるのがもったいない。 先輩の汗の滲んでいる地名の地方色こそがその土地土地の誇りなのではなかろ うか。古くからの地名を大切にして行って戴きたいものである。   
        1984年5月                          
                                     山 田 秀 三

                   添付略図について

 松浦武四郎や永田方正はアイヌ語地名について貴重な資料を記録して置いてくれた のであるが,今それを読んで,現在のどこのことであるかが分からないものが少なく ない。土地を離れては地名だけ残っていてもしかたがないものである。
 幸い,明治30年前後に刊行された陸地測量部の北海道の仮製5万分の1図等は,そ の時代のアイヌ系の土地の人たちが測量に参加したせいか,殆どの地名が,本来ある べき位置に記入されているのであった。
 今,地名を調べる人は,誰でもがまずその仮製5万分の1図を見る処から取りかか られる。相当正確な図であるので,私のやり方は,先ずそれをトレーシングペーパー に敷き写しをして,それを現在の5万分の1図に重ねて見る。そうすると川筋の変遷 もはっきり分かるし,当時の地名の位置を今の測量図の上にきちんと移すことができる。   もちろん松浦氏の旅行日誌や地図,永田地名解等々には,仮製5万分の1図にはな いものが多く残っているが,それを基礎にしてある程度位置の見当をつける。有難い ことには,アイヌ語地名は地形の名が多い。そうやって準備した地図を持って現地を 歩くと,ああここだったと分かるものも少なくない。
 この書には,せめてそうやって準備した5万分の1図をつけて置いて本文と対照し て戴きたいと思ったのであったが,何せ広い北海道のことである。全道の5万分の1図 を本の頁の大きさに分けて入れたらたいへんな頁数になってしまう。止むを得ないの で,地域別に,小さな略図を作って,ほんとうの見当をつけて戴く程度にしかできな かった。
 その地域がまた南北に長かったり,東西に広かったりである。それを頁の形に合わせて地図にするのには苦労した。地域別には止むを得ず縮尺を変えざるを得なかった。
 また地名が混んでいて書き込めなかったり,図面の外に少しはみ出していたりして, 本文の小地名を入れれなかったものもあった。それらは本文の前後の地名と合わせて 読んで位置を推定して戴くことで勘弁して戴きたい。   要するにこの小図では,一応の見当をつける程度にしか書けなかった。更にお調べ になられる方は,その見当で大きな図,できたら仮製5万分の1図のその部分を見て 戴けたら有難い。

 

 

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