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■真情の韓国論。日韓のわだかまりを超える感性。
1965年日韓条約交渉の最中、学生デモのなかに入りこみ、モスクワの朝鮮人の激動の身の上話に聞き入り、58歳、忽然とソウルの延世大学に留学、貧乏下宿で韓国の大学生と共同生活を過ごす。行き交った韓国人・老若男女との交情をペーソスと辛しの利いた文書で綴った韓国狂想曲。虚心坦懐の交わり
百の国があれば百の歴史と現実があることに目をつぶって、出来合いの観念で一刀両断にして恥じない風潮が昔も今も絶えない。 韓国とは今後永久に付き合ってゆかねばならない、いちばん近い外国である。以下の拙文で私がいいたいことは、この隣国と肩肘はらず、そして対等に誠実に交わってゆこうではないかという、まことに平凡な一事である。
ISBN4-88323-045-7 C0095 四六判216頁1985年刊 定価 本体1,500円+税
〔目次〕
1 ソウル雑感
惜暮年 妙薬 風が身にしむ 丁丁発止 チョルル Sの消息 卵コーヒー 某夜の邂 逅 カミカゼ 海苔の玉手箱 「大牢の滋味」 チャンガプ、ソラブ 一の布団 ハダカの話 歳月の深淵 「赤 旗」 イバラの冠はどこへ行ったか 東方礼儀之国 事実は事実だが 姦通罪 カツラ 掌のスタンプ 案内員と ローソク 啄木鳥のうた 哀しみは… 男の美学 「失礼しました」 二つの恋物語 真赤な口紅 人間とは何か 下着乾焼法
2 人生は灰のみ残して…―韓国留学記
58歳 ソウルで韓国語を習うの記 留学日記帖から 韓国にはキリスト教がよく似合う さよならスニョニム
3 アルト・ハイデルベルク=ソウル
光化門その一 その二 その三 その四 ソウル大学校 南大門路 纛島
4 隣りの国の人びと
私が会った韓国人 韓国を見る眼(人間の体温 彼岸 戒厳令 ハングル世代 内なる戦争 歪められた韓国像 韓国人のこころ
〔著者略歴〕
1923年佐賀県生まれ。東京大学文学部卒業。1950年毎日新聞社入社。社会部記者を経て、ソウル(1964〜6)ニュ−デリー(1967〜8)モスクワ(1968〜72)特派員、のち論説委員。退社後、82年まで山形新聞論説委員。同年3月より12月まで延世大学校韓国語学堂に留学。1997年4月18日死去。
1997.4.25 毎日新聞
余録
「一生に一度のことである死亡に際してのごあいさつは本人自らがすべきだと考えてきました。以下の文章は今年元旦に記し、私の死後、日付と病名を挿入して皆さまにお送りするよう家族に依頼しておいたものです」▲こんなお断りをつけてワープロ書きの死亡通知が届いた。日付と病名は夫人の手書き。「ご迷惑をかけることのあまりにも多かったことを心からおわび申し上げます」のあいさつの後、「かねての私の意思により、私の死体は大学解剖学教室に実習用として寄付し、葬儀は行いませんでした」と本人の死亡通知は続く▲「太平洋戦争中に、私が海軍軍人として勤務していた南支那海の航空基地では、連日の戦死者に対して葬送の儀式は行われませんでした。それでよかったのだと思います。絶えざる潮の響きにまさる鎮魂の調べがあるでしょうか」▲「韓国釜山の大学で教鞭を執っていた1987年の夏のある日、私は自分の頭髪を影島太宗台の海に投じておきました。永遠なる海の紺碧の中で私も眠りたいと思います」。「通知」はさらに続き、「さようなら」で結ばれている。署名は本人の筆で吉岡忠雄。本社のソウル、ニューデリー、モスクワ各支局長を経て、論説委員時代に「余録」を執筆した先輩である。▲吉岡さんは4月18日の昼前、近所の耳鼻科へ治療に行った帰りに倒れた。救急車で運ばれたとき、意識はなかったという。病名は急性心不全。73歳だった。死亡通知の封筒のあて名も吉岡さんの直筆だ。「自分でせっせと書いていたようですよ」と奥さんが言っている▲人は一人ひとり生き方が違うように、死に方も違う。型にはまった死はない。吉岡さんの生き方も死に方も、ともに見事だった。きのう、衆院本会議で臓器移植法案が可決された。死を考える機会がますます増えた。
1985.9.22 日本経済新聞
内側から見た韓国
日本人の集団性は有利に働くことも不利な結果につながることもある。日本人の海外旅行は集団性が発揮されがちな場だが、外国の名所旧跡を見るだけでは、外国を理解したことにはならず、逆に間違った印象を持つことにもなりかねない。それだけでなく、相手に誤解を与えることもありうる。
外国を理解することは容易なことではない。特に「近くて遠い国」ということばが示すように、日本人には隣国の韓国と韓国人の心情を理解することは困難なことである。パック旅行や矩期の駐在は韓国のほんの一断面を見られるだけである。これでは韓国はいつまでも「遠い国」でしかあるまい。
韓国関係の本の出版が相次いでいるが、必ずしも「パック旅行」型の域から脱しているとはいえない。本書はソウル特派員を含め国際経験豊かで、毎日新聞のコラム「余録」の名ライターだった著者が、ソウルの私立大学に語学生として留学、「内」側からとらわれない目で韓国を観察、日本を眺めたものである。著者の子供のような大学生との交遊、学生下宿のおかみさんの表情などが簡潔な筆致で活写されている。
ここには皮相な集団性やおもねりはない。新聞社を退職し、個人で隣国の日常社会に溶け込んだ著者の勇気は驚きだが、隣国の若い友人たちと生活をともにしながら韓国への愛着と理解を深めていく姿が浮き彫りにされている。
1985.9.23 毎日新聞
著者の周辺 韓国体験のエッセンス
「韓国病」患者の一人であることを自認する。 1964年2月から2年3カ月、新聞社の特派員としてソウルで過ごした。日韓条約締結をはさむ激動の時期であった。しかし、日本語だけで取材に不都合のない時代でもあった。
「しょせんはヨソ者として“見物”しているだけでしたね」その最初の「韓国体験」から17年、今度は“見物”ではなく“生活”をした。9カ月聞、ソウル延世大韓国語学堂に留学したのである。58歳だった。ソウルの下町の学生下宿で韓国の若者7人と一緒に過ごした。全国紙と地方紙で合わせて32年も新聞記者をしてきた人が、日本の新聞・雑誌も遠ざけて「韓国」に没入した日々である。
「楽しかったですねえ。自分の韓国人像がいかに間違っていたかも痛感しました」 ハラボジ(おじいさん)と呼ばれながらも、吉岡さんには、はるか青春の日々がよみがえっていたのだろう。特派員時代、接する人たちは、まるで時候のあいさつのように「日帝支配の36年」を語った。ハラボジとして同じカマの飯を食べた青年たちは、すでに朝鮮戦争さえ、一つの「歴史」として受けとめていた。彼らは、自分の目で見て、自分の頭で考えて「日本」と「日本人」を判断しようとしていた。
人と人との関係がますます乾いたものになっている日本に比べると、韓国の人間関係はハラボジに、ある懐かしさを感じさせるものでもあった。
「身内だと思えば、徹底的に仲間にする社会です。友人になれば、これぐらい頼もしい友人はありませんね」
留学体験記など、この本に収められた文章は、こうした20年近くに及ぶ「韓国体験」のエッセンスといっていいのだろう。「病人」の発する言葉は、えてして声高な「賛歌」ばかりなのだが、吉岡さんの口調は柔軟で親しみやすい。
〈百の国があれば百の歴史と現実があることに目をつぶって、出来合いの観念で一刀両断にして恥じない風潮が昔も今も絶えない…〉と、吉岡さんは書いている。
日本のマスコミを支配していた韓国観についてである。日韓条約から20年、吉岡さん的「韓国病」は、もっと猛威をふるってほしい。(於)
1986.4月 現代コリア 260号
関川夏央
著者は元新聞記者である。壮年時代にはニューデリー、モスクワなどの特派員を歴任したが、その最初の任地は1964年のソウルだった。のちに全国紙のコラムの執筆者となった。退職し、初老の域に達してから言語習得を望んで韓国に留学、一年ほどを延世大学のキャンパスで過ごした。
「ソウル・ラブソディ」を読む前、わたしが著者に関して知ることは以上ですべてだった。読後、著者のパーソナル・ヒストリーにつけ加える知識はさして増えなかったが、それ以外のより本質的な部分で学ぶことが多かった。
まず、わたしの新聞コラムニストに対する偏見は、文字通り偏見でしかなかったと思い知った。この本の書き手は名手であった。おなじ新聞記者出身の田中明氏の書く日本語は現代では得がたいほど美しく、格調という言葉をたやすく連想させるが、吉岡忠雄氏の文章にはまっすぐな折り目があった。それは強いていうならば、戦中派の、あるいは元海軍将校らしいきびしく誠実な折り目だった。
1936年2月26日に小学校6年生だった著者は、1964年2月、赴任早々のソウルでも戒厳令を経験することになる。当時のソウルでは深録色の軍服が目立った。翌1965年、韓国軍はベトナム派兵を実行した。その年の2月、著者は基地の街、春川で壮行式の写真を撮った。
「私の目の前で中隊長のひとりに若い妻がかけ寄って胸に顛を埋めた。背負われた赤ちゃんが私のカメラに驚いて泣きだし、それを中隊長の妹らしい女学生があやそぅとした。中隊長自身は妻とわが子には目を向けず、親戚の誰かと話していた」
この中隊長が浮かべている笑顔が胸にしみた、と戦中派は20年後にそのおなじ写真をとり出し、眺めつつ書く。自らの経験が中隊長に重なりあぅ。
「私は、基地の正門前で父母と別れた。この中隊長よりもさらに若く、もちろん独身だった。『じゃあこれで』といって敬礼したとき頬がゆるんだ。意識してやったのではない。きわめて自然にそぅなった。ぴしっと前れ右をして背を向けて隊門を入り、大股で歩んでいった」
「この中隊長もあの時のオレと同じ気持でいるな、と考えながらその場を離れた」
白人は妻子や親と笑って別れることはしない。「さようならとのひとことは男なりゃこそ強くいう」、そこでは韓国人と日本人は共通していを気がする、と著者はいう。そして中隊長の写真を撮ってより20年ののち、新聞社を辞し、初老の留学生として韓国人青年たちに混じって下宿生活、学園生活を経た彼はこうつづけた。
「朝鮮史の専門家はどういうか知らないが、1961年の5・16革命から25年、現在の韓国には『男の美学』が定着したのではないか。武官が文官よりも卑しめられてきた李朝いらいの両班文化は、形式は残っている部分はあっても実質は完全に消え失せたのではあるまいか。韓国は真に新しい国家になったのだ。この写真をながめるたぴに私はそう思ぅ」
もちろん著者は韓国と日本の「共通点」をことあげする材料としてこのくだりを記したのではない。むしろ、駐在と留学そして日本でのたゆまない勉強を通じ、韓国文化と日本文化の根源的差異を身をもって知りつくしている彼は、日本人はいかに韓国を「外国」として認識できるか、甘えや軽んじを根底に秘めたもたれかかりを冷酷なまでに排除していかに「外国人」たりうるか、と66年に書かれた本書の最終章がいまでも大多数の日本人に対して有効であり、このテーマは残念ながら常に新しい、ということを知悉しているのである。そうだからこそ、また、戦争と戒厳令を体験した世代の著者が、韓国以外の外国と外国人を知ったうえで、つまり韓国をすでに相対化したぅえで、相対化と客観的観察の果てのため息にも似た感傷であり抒情であるからこそ、われわれの心をうつのである。そして、「私はこの国が好きだ。人間とは何かを常に問いかけてくるこの国を愛する。生きている限り」という著者の韓国に対する並みはずれて強い憂惜の念の吐露も鋭得力をもって追ってくるのである。
1985.11月号 コリア評論
石川 巖
著者の吉岡さんは毎日新聞のソウル、ニューデリー、モスクワ特派員を務め、その後、論説委員として朝刊一面の最下段のコラム「余録」を書いておられた人だ。
毎日新聞の「余録」、読売新聞の「編集手帳」、朝日新聞の「天声人語」……。どこの新聞社でも、このコラムの執筆者は、社内きっての名文家と相場がきまっている。ヒラ記者から見れば垂涎のマトだし、社内的な立身出世も約束されている。それなのに吉岡さんはヤプから棒に(という印象で)、未練げもなく毎日新聞をやめて、地方紙の山形新聞に行ってしまわれた。
それだけでもびっくりすることなのに、こんどはなんと還暦近い58歳になって、韓国語を勉強するためにソウルの延世大語学堂に留学されたのである。官費のお大名留学ではない。延世大近くの学生下宿で息子ぐらいの韓国の大学生たちと「同期の桜」暮らしをし、「840ウォンのフロ代にもこと欠きながら」(この本によると、9カ月間の留学生活中、フロ代がなくて、真冬でも冷水摩擦で通された由)、最優秀の成績で語学堂を修了されたのだ。
1923年生れというから、現在、62歳。新聞記者にも天下りが多くて、元論説委員ともなれば大学教員とか、在職中の関係にもぐりこむ人が少なくないのに、吉岡さんは大学教授ぐらいの資格は十分ありながら、そういう第二の人生を歩んでおられない。職業安定所を通じていろいろな筋肉労働のアルバイトをしながら、非商業ベースの月刊誌「現代コリア」(日本朝鮮研究所)の編集を手弁当で手伝っておられる。(といって、いつ見ても瀟洒な紳士で、貧乏くさいところはまったくない。私など現役でも浮浪者のようだが……)。要する葉隠武士の佐賀ッポらしく、いさぎよいのである。他社の人ながら私のもっとも尊敬する、吉岡さんは同業の先輩の一人なのだ。
さて、この本には同宿の学生からハラボジと呼ばれる留学生活の見聞を中心に、ソウル特派員時代以来の韓国および韓国人に寄せる吉岡さんの思いのたけを綴った文章がまとめてある。吉岡さんという実に人間らしい人の、真っ赤な熱い血がどくどくと脈打っている。その鼓動がこちらにまで伝わってくるそんな熱っぽく、せつない文章である。まなぎしのあたたかさに、心ふるえる思いで読んだ名場面のいくつか……。
ソウルの路地裏を、一人の女児が歩いている。子ネズミがそはを走り抜けて、女児の前でとまる。「アイ・アギャ」(おや、赤ちゃん)」。女児はつぶやく。子ネズミは女児を仰ぎみる。ソウルの路地でしか、いや韓国でしか見られない場面。
鍾路三街の赤線区域の朝、一夜をともにした女が百ウォンくれという。「子供のときから大好きなショウガ菓子が無性にたべたいの」。駄菓子屋で買ってきたショウガ菓子を女はたべ、残りを新聞紙に包んで「持っていけ」という。通りに出ると、雪が凍っていた。ショウガ菓子がこぼれ落ちて、氷に当たってカサッ、カサッと音をたてた。
下宿の大学生をビヤホールに誘った。ガム売りの女性がきた。「チェソンハムニダ(すみません=わが罪の深さに恐れおののく)」という最大級の謝罪のことばを使って、大学生はガム売りを断わった。「わが国はまだ貧しい。この貧困を無くすために勉強しているのです」。彼の目に光るものがあった。
釜山から麗水へ通う連絡船。泥酔した初老の男がバイオリンを弾いている。船客は焼酎をあおりながら、手拍子をとって合唱した.船客の一人が舌打ちした。「あれはS港の天主堂の酔いどれ神父だ。このざまはなんだ」。乗り合わせた吉岡さんはこう思ぅ。「カナの婚礼の日にイエスは何をしたか。人々のために水を酒にかえたのではないか。あの酔いどれ神父こそイエスそのものだ」と。
これはほんの一部分にすぎない。こうした名場面の連続に、本を読み終わるのが惜しい思いをする。「私はこの国(韓国)が好きだ。生きている限り」という吉岡さんは、この本の中で「その国を心底好きになる瞬間とは、(その国の)人々の心の奥にあるせつなさ、やるせなさに触れた」ときだといっている。人々の心のせつなさ、やるせなさには、こちらにも熱い血が脈打つ心がなければ、こんりんざい触れられない。この本の中にあることばを使うなら、熱い血とは“男の美学”(心意気)である。この本は吉岡さんという九州男児の“男の美学”で貫かれている。
当然、この本で、吉岡さんは“非美学”的な北朝鮮や、日本の進歩派に対してはきわめて厳しい。日本のマスコミの韓国報道も、「歪められた韓国像」という一章でヤリ玉にあげられている。長年の特派員経験で、「国際政治の非情で冷酷」な裏側を熟知しておられるためでもあろう。
私自身も日韓問題の報道にたずさわってきて、「歪められた韓国像」には人一倍、反省しているし、進歩派の姿勢には批判もある。しかし、さる5月、7年ぷりに訪韓して、やはり貧富の差、言論自由、労働問題など韓国がかかえているさまざまな矛盾から目をそらしてしまうわけにはいかなかった。従来の反動として政治・社会問題抜きの韓国レポートが流行しているが、それもまた歪んだ現象ではないか。吉岡さんのお教えを乞いたい。
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