黒田福美の部屋その3(2000417現在)
 不思議な夢

1995年9月に読売新聞 に連載したエッセイ「女のしおり」から

 「こんな夢を見た」(9/3)  
  私には二冊の著作があるせだろうか、時折原稿を依頼される事は今までにもあったが、たいていはテーマが決まっていて、何でも自由に書けるという訳にはいかなかった。原稿だけでなく、私が十年にも及ぶ長い歳月、女優であるかたわら、韓国を報道するという一風変わった事をして来たため、番組でゲストとして招かれるような時にも、話題は韓国にばかり終始して、もう少し別の私も見て欲しいのにと、残念に思う事もしばしばだった。  
  しかしこの度、そんな鎖から放たれ、好き放題を書けるスペースを頂戴した事は嬉しいかぎりだ。子供の頃の事や友人の事、日頃不可解に思っている事など、自由に書き、韓国以外の事を語る私を大いに見て欲しいと思っている。  
  ところで、今年は戦後五十年という節目の年だ。その意味深い年に、何年も前に見た、不思議な夢の話をやっと語るチャンスを得た事は、何かの因縁なのかと思わずに はいられない。  
  五年程前の話だ。もとは病院があったという神戸の某ホテルに泊まった折、こんな夢を見た。  
  木々の緑と、空の青さが強い日差しの中で強烈なコントラストを描いている。側には小さな滝を有した川が流れ、樹々の間を小動物がすばやく行き交っている。熱帯の地の風景だ。ふと見ると、向こうから一人の青年が私の方へ真っすぐに近づいてくる。二十七、八といった年配で、開襟の白い半そでシャツを着ている。彼は日に焼けた健康そうな顔に、白い歯を見せてにっこりとほほえみながら、明るい調子で私にこう言うのだった。  
  「僕はここで死んだんですよ。自衛隊で飛行機乗りだったんです。天皇陛下の御為に死んだことには今でも何の悔いもありません。ただね、ひとつ残念な事があるんですよ。それはね、僕は朝鮮人だというのに、日本人として、日本人の名前で死んでいったという事なんです」  
  私はそこで突然眠りから覚めた。今の夢は何なのだろうと思った。「僕は死んだのだ」と言いながら、彼は実に快活で立派な体躯だった。こうして夢から覚めてしまえば、むしろ妙に懐かしく、もう一度会いたいと思うような人だった。  
  その時の私には何の恐怖感もなかった。ただひたすら釈然としない思いのまま、再 び眠りについた。すると又、この夢の続編ともいうべき不思議な夢の世界にひき込まれて行く。  

 「過去からの手紙」(9/10)  
  次の夢はこうだ。私はダンボール箱一杯につまった、古い手紙を整理している。ふと見ると、なかに一通封も切られていず、切手も貼られていない封書がある事に気づいた。表書きは「黒田福美様」と横書きに記されただけ。しかも四角は茶色く色づく程、ひどく年月を経ているように見えた。  
  開封してみると、たった二行の文章が書かれている。一行めは私に対する挨拶のようなものだったが、定かには想い出せない。二行めは「私は誠服でした」と書かれていた。確か「誠服」だったと思うが、後に「清服」だったかと思うようにもなりあやふやだ。それに果たして、こんな日本語が存在するのかどうかも、今の私にはわからない。けれどその手紙を見た時、私はすぐさま、あの人が遠い過去から現在の私に宛てた手紙だと思った。そして私には、彼が任務に忠実であり、まさに「誠」や「清」をもってその役目に「服」していた、その心が伝わって来たのだった。  
  朝になり、私はベッドに半身を起こして、すっかり覚醒した頭で、この一連の夢は何だったのだろうと考えた。 
  自慢じゃないが、私はお化けもUFOも見た事がないし、宗教さえも持っていない。けれど私には、日本の軍人として死んでいった朝鮮の人々からのメッセージなのだとしか思えなかった。はじめの夢の中で「僕は自衛隊だった」と青年が語った事も、私を驚かせないための方弁だったのではないだろうか。  
  彼は実は、特攻隊ではなかったか。
 私はその時、「確かにあなたのメッセージを受けとめた」と深く心の中で呟いた。  
  しかし、私から彼へ、その気持ちを伝えるには、もう一度、夢の中に彼が訪れてくれるよりない。私はその後しばらく、それを期待して待ち続けたが、彼は二度と現れてはくれなかった。  
  夏だった。「今年もまた八月一五日がやって来る」。そう思った時、私は韓国のお盆にあたる「秋夕」と呼ばれる日(旧暦の八月一五日)に靖国神社に行ってみようと思いついた。  
  靖国神社には、戦争で亡くなった人々の御霊が祀られているという事もあったが、何かの折に、その敷地の中に、朝鮮人戦没者の慰霊碑があるという話を聞いた事があったのだ。そこに参れば、もう一度、彼に会えるかも知れない。  
  私はその年の旧暦の八月一五日が、新暦で九月の幾日に当たるのかを調べると、静かにその日の来るのを待った。     

  彼からの伝言(9/17)  
  私は夢の中に現れた、一人の青年に導かれ、不思議な旅をしていた。  
  旧暦の八月十五日、まだまだ暑い九月の上旬。その日は朝から銀座でドラマのロケがあったのだが、昼頃には解放された。  私はまず、ソニービルの裏手にあった花屋に向かった。ちょうど良く、白いコスモスが置いてある。私はそれを花束にしてもらい、白いリボンをかけてくれるように頼むと、店員は困ったような顔で申し出た。  
  「けれどあの、白いリボンというのは弔意を表すような時に使うんですけど」  
  「ええ、わかっています」  
  そこからタクシーに乗り込むと、私は運転手に、靖国神社へ行ってくれるよう伝えた。しばらく行くと車は皇居につき当たり、更にそのまわりをめぐるようにしながら進んでゆく。私ははっとなった。家から向かったのであれば、とうてい皇居などは通らない。「陛下の御為に死んだ事に悔いはない」と言っていた彼は、もう一目、陛下にまみえたかったのかも知れない。私は行けども行けども左手にある皇居を不思議な気持ちで見つめていた。  
  初めて足を踏み入れた靖国神社は、湧きたつようなセミの声につつまれていた。あまりの広さにうろたえながら、一体めざす朝鮮人戦没者の慰霊碑はどこなのかと探した。そこへ若い袴姿の宮司さんが通りかかったので尋ねてみたが、「さあ、わかりませんね」と言って首をひねった。彼は、「ちょっとお待ち下さい」と社務所へとって返したが、やがて戻って来て私を案内してくれた。  「こちらがそうです」  
  私はにわかには信じられない思いだった。何故ならその碑は、敷地内に展示された蒸気機関車の裏側、しかも堀にはさまれた、わずかなすき間に、ハト小屋と向き合うようなかたちで、ひっそりと佇んでいたのだ。まず普通の参拝者の目にはとまらないような場所だ。   
  その碑には何の標示もされていなかった。碑の表面は磨滅して、確かな解読はできないが、かすかに「朝鮮」などの文字が読みとれる。果たしてこの碑は何なのか。  
  私は静かに花束を捧げた。もしかすると、彼がこつ然と姿を現すかもしれない。私はしばらく立ちつくし、何かが起こるのをじっと待った。しかし、ただ虚しく蚊柱がたっては散るばかりだ。その時、私はようやく気づいた。彼はこれ以上、何を言いたかったのでもない、ただ私に、この碑の有り様を見せたかったのだと思った。そして多くの人に知らせて欲しいと願っていたのではないだろうか。  
  奇しくも戦後五十年の今年、ようやくこの話を発表する機会を得たのは、何とも不思議な思いだ。そして私も、長年背負い続けた荷物を、今やっとおろせたような気がしている。     

  夢のあとさき(11/12)  
  この連載が始まった当初、不思議な夢を見た事がきっかけで、靖国神社の石碑を訪ねるに至ったという話を三回連続で書いた。まるでメビウスの輪のように、夢から現実へと移行していったこの話には、ちょっとした「オマケ」がついている。  
  この記事を読んだ、靖国神社の広報の方が、わざわざお電話を下さったのだ。その方のお話では、例の石碑の前にある遊就館という建物の中に、特攻隊として散った方々の御霊が祀られている。その中の光山文博さんという方の霊が、あなたをここへ招いたのかもしれないというのだ。そしてその光山さんは、朝鮮出身の方なのだという。  
  せっかく光山さんのま近まで来ていながら、彼の遺影に対面させてあげる事が出来なかったのは、何とも無念なので、是非もう一度おいで下さいとの事だった。私は早速靖国神社に出向いた。  
  ひどい渋滞で約束の時間を大幅に遅れた私を、その方は辛抱強く待っていてくれた。  
  遊就館に一歩足をふみ入れた私は、あっと息を飲んだ。うっすらと「同期の桜」が流れる一階のホールには、ゼロ戦に似た「彗星」という艦上爆撃機が飾られていた。  
  そして二階には、特攻隊員として命を捧げた人々の遺影と共に、遺品や遺書が展示され、各人がどれ程見事に、その短い命を散らしていったかという事が、パネルに綴られているのだ。  
  光山さんのコーナーに案内された私は、かれの遺影をじっと見詰めた。彼があの夢の中に現れた青年であろうか。そう思えばそのような気がするが、やはりしかとはわからない。  
  光山さんは朝鮮の出身であった為、一人として面会に来てくれる客もなく、淋しく出陣の時を待つ身だった。そんな彼を不憫に思った近くの宿屋の女将さんは、ことさら彼に情をかけた。光山さんはその女将さんに、形見として朝鮮の布で織った財布を託し、出陣したのだという。  
  ひとしきり話し終えると、広報の方は場所を移りながら、立派に勇敢に戦地へ赴いていった英霊達を、実に手馴れたバスガイドのような口調で、次々とよどみなく解説してゆく。  
  しかし私は、その口説を聞きながら、どんどん冷めてゆく自分を感じていた。もちろん彼等がどれ程純粋で勇気に満ちあふれ、立派であったかは疑うべくもない。けれど、そんな素晴らしい人々が、生きてこの世にあったなら、どんな偉業を成し、幸福で暖かい家庭を築いたかと思うと、たまらない気持ちになるのだ。  
  帰り際、広報の方に礼を述べ、「今年は戦後五十周年で大変でしたでしょう」と言うと、「ええ、お陰様で」という返事が返って来た。  
  それは一体どういう意味なのだろう。私は何か釈然としない気持ちで立ち去ったの だった。

 

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