書籍のご案内(991110現在)
 『ソウルからの手紙―韓国教会のなかで澤 正彦著

■追われる日までとどまらん―日韓和解の架け橋となるべく、ソウルに赴いた日本人牧師が、日本人の過去の罪を負いながら、激動する韓国の現実に直面して、考え、行動した良心の軌跡。
本書あとがきより■私は戦後初めての日本人宣教師であったが、韓国で心がけて関心をもとうとしたものに次の三つがあった。 第一は苦難の現場に共にいたいという心から、韓国キリスト者の人権運動に関心をもったこと、第二は韓国にいながら、北朝鮮研究、とくに北におけるキリスト教を考えたかったこと、第三は韓国の文化、自然、宗教、すべて韓国的なものへの愛着をもとうとしたこと、この三つであった。この通信でも私の三つの関心が交錯していると思う。

ISBN4-88323-055-4 C0095 四六判312頁 1984年刊 定価 本体1800円+税

目次
第1信 韓国に遣わされて 第2信 日韓の深い溝 第3信 平和をつくりだす人 第4信 愛国心と信仰 第5信 共に生きる 第6信 噂と祝福 第7信 間違った歌 第8信 坊主頭になって 第9信 愛の実践 第10信 追われる日までとどまつて 第11信 ミッショナリー(宣教師)になりたい 第12信 矛盾した心 第13信 神の訓練 第14信 まず神の国と神の義を 第15信 罪を憎み、罪を負う 第16信 ヒユーマニティ(人間性)のための闘い

朝日新聞評 1984.9.3
闘い続ける宗教家の姿
著者は東大法学部をおえてから神学を修め、現に東京で牧会しているプロテスタントの牧師である。東京神学大学大学院在学中に、すでにソウルの延征大学連合神学大学に留学し、戦前朝鮮文学の紹介者として知られた金素雲氏の長女と結婚した著者は、やがて戦後はじめての日本基督教団宣教師として家族同伴33歳の若い身を再びソウルに運ぶ。やみがたい心情につき動かされた著者の活動を経済的に支えようとした後援会全員に、著者はソウルからの報告を送りつづけた。その期間は1937年3月から、79年10月にわたり、著者は最後に大統領出国命令で日本に帰る。朴正煕殺害の数日前のことである。 本書はこの6年半にわたる通信の前半、75年12月までの手紙をまとめたものであって、著者は日本統治のなまなましい傷跡を見せつけられながら、買春観光、田中首相の日本統治礼賛、そして大統領夫人狙撃事件などに噴出する反日感情を痛みとともに受けとめソウル郊外の教会の協力牧師と韓国神学大学の2コマの講義を中心に、韓国との心の絆を結ぼうと努力する。けれども、この時期はまたそのまま朴正煕維新体制と重なり、著者は「韓国の政治体制が今いかにあれ、日本人としてその中に入っていき、そこにとどまって生きたい」という願いにもかかわらず、政治の激動に揺さぶられ、また鍛えられずにはすまない。 これは韓国社会におけるキリスト教の、日本人の想像をはるかに越える力量からの必然であり、維新体制に対して確信をもって民主化を要求し、人権を擁護するとき、教会はつねに全面に立っていた。もとより、そこには権力に迎合する聖職者もいる。しかし、すぐれた宗教家が信仰に忠実に投獄・迫害にたえて闘いつづけた姿が、実に生き生きと描かれて、第一級の証言となっている。拘束者家族のための木曜祈祷会の情景は、現代世界において最も力強い信仰の生命力を伝え、義妹の投獄、韓国神学大学への教授追放・学生除籍の強要など悲痛な経験の中から、著者はイエスの福音の政治的意味をまで問い返している。本書は著者の通信全体の約半分にすぎず、まして著者の全斗煥体制への見方は本書からはうかがうべくもない。ただ例えば韓国キリスト教学生・青年組織の訪日反対声明の理解に役立つことだけは、争うべくもないところである。

クリスチャン新聞評 1984.8.26
追われる日まで宣教師として
来月には韓国の全斗煥大統領が来日し、天皇との会見も予定されているというのでマスコミでは日韓関係がクローズ・アップされている。このときにあたり日韓関係や天皇制の問題を教会的視点から考えるのにちょうどよい本が出版された。 本書の著者は、日キ教団宣教師として1973年からソウルの水★洞教会(のち松岩教会)で奉仕するかたわら韓国神学大学で教えた。本書の内容は日本の後援会の人々に宛てた通信で期間は滞在第一期分(1973年3月から1975年10月まで)にあたる。この時期でも、420万人のキリスト者がいて「日曜の朝、教会に行く時間になると、どの道にも、どのバスにも、聖書と賛美歌を手にした信徒達がいて、教会に行く私達も、自然と心温まるものを感じ」たが、現在ではさらに教会は成長し690万人(うち77%がプロテスタント、23%がカトリック)のキリスト教国となっている韓国。 著者は、韓国を深く愛し、日本が過去に韓国を植民地化して民衆に与えた犠牲という大きい重荷を背負いつつ、十字架の和解に支えられた牧師として証しの生き方を韓国で通してきたが、1979年にとうとう政府より出国命令を受けた。 朴政権下のいわゆる「維新体制」期に社会や教会に起こる出来事をニュース風に通信として伝えてくる著者の精神的支えは、商社マンや技術者のような日本経済でもないし、外交官のような政治的特権でもない。それは「維新体制」下で十字架のキリストの足跡に従う一群のキリスト者ともにある祈りであった。 外国に遣わされている宣教師の立場として、「福音伝道という最大指令を遂行するために、政治面はいっさい触れない」かまたは逆に、「福音の現代的理解をほとんど政治と同一視して政治への献身をする」ことの二つが考えられるが、著者はそのどちらもが福音の豊かさを無視しているという。第三の立場として民主主義体制下であれ、独裁であれ、そこに「とどまって生きる」ことを取る。それは夫人の大学生の妹さんが大統領緊急措置違反で一年の獄中生活をしいられその間も家族として苦難と希望をともにしたことにもあらわれている。 さらに南北を分断する38度線は、終戦直後に日本軍の終戦処理のために臨時にひかれた線であり、それ以後、南北問題は民族の大問題である。教会がこの問題でいかに大きな試練に立たされているか。「韓国における『反共』『容共』という言葉は言葉以上の言葉であり、神格化された何かを帯びている」と聞くとき、日本に復活しつつある国家主義との関係で深く考えさせられるものがある。

季刊三千里 40号 1984.11.01  
本書は、日本基督教団の宣教師として戦後初めて韓国に派遣された澤正彦氏が、日本の後援会の人びとに宛てた通信16篇を編んだものである。かつて留学したこともあり、また夫人の実家がある韓国へ再び渡った澤氏は、つぶさに見聞し体験したことを、ある時には苦渋にみちて記しながらも、感動をこめてこうも書いている。  「日本人が、型にはめられた中でギクシャク生きるよりは、彼ら〔韓国の人びと〕のょうに噂と祝福で笑いとばして生きる方が人間らしいと思う。私も大分、韓国の人の噂と祝福に感化されて、楽天的になり、ユーモアを解する者になった」  「日本の人達は〔一時帰国して〕韓国に行く私に大変でしょう、御苦労様という。しかし、いつの間にか、韓国のほうが住み易くなっている自分を発見する」  ここに見られるような、韓国の人びとに注ぐ曇りなき視線と、「韓国の文化、自然、宗教、すべて韓国的なものへの愛着をもとう」とする澤氏の揺るぎない姿勢は、終始変らないものとして本書に流れている。  この通信が書かれた1973年3月から75年12月にかけての2年半は、言うまでもなく韓国において、また日韓関係においても「激動の時代」の幕開けとも言える時期であった。すなわち前年の7・4南北共同声明への喜びも束の間、10月の「維新体制」強行、73年8月の金大中氏拉致事件、翌74年4月の民青学連事件、8月の文世光事件、10月の『東亜日報』記者自由言論実践闘争、そして75年5月の大統領緊急措置……。  ソウルの韓国神学大学講師、そして松岩教会の協同牧師としての澤氏は、こうした激動の渦の中で傍観者としてとどまることを許されなかった。澤氏の夫人・纓さんの妹が逮捕され、神学大学の教え子たちが獄につながれ、同僚の教授たちも追放された。そして「自分自身を生かす意味でも、この世を生かすためにも、一粒の麦となろう」と起ち上がったキリスト者たち。自分の身を削るような思いで、なお「長期にわたって韓国にとどまり、大きな枠の中で韓国を是認し、信頼し、入り、生きていこう」とする澤氏。彼は通信にこう記す。「日本大使館前でデモ。私は何をどうすべきであろうか。誰か教えてください」「緊急措置九号。言葉なし」――。  だが、こうした中にあっても澤氏は、こう考える。「告発の矢は現政権〔朴正熙政権〕にぶつけるにせよ、私の場合は、より内に内に、日本(日本人=私)への告発に返ってこない限り嘘だ」と。なぜなら、「韓国の土地は、日本人には決して白紙の土地ではない」からだ。“日本の植民地支配は今も韓国の人びとに感謝されている”と公言して憚らない日本政府の首相や、買春観光に押し寄せる日本人、これらみにくい日本人の中に「自分も含まれている」からだ――と、澤氏は言う。そこに、日本の戦後世代が70年代の体験も通して到達した地平がある。だからこそ本書は、いわゆる同時代ルポを超えて、説得性ももって追ってくるのだろう。  戦後39年、日韓条約締結から数えても19年を経た1984年の今日、「日韓新時代」が叫ばれ、70年代から80年代初頭にかけての「激動の時代」はあたかも終ったかのようによく言われる。しかし、日韓両民衆の和解が果たしてなされたのだろうか。澤氏が本書でたびたび指摘していることだが、韓国のキリスト者はこう主張している。「われわれが願っているのは、心の和解がまずなければならないということだ。そうでない場合、政治的協商は、いつの日にか、破綻にぶつかってしまうだろう」と。これは19年前、日韓条約に対しての金在俊氏の言葉である。この警鐘は今なお「課題」として私たちの前にある。          (佐藤信行)

関連著作
金纓『チマチョゴリの日本人』
金纓『チマチョゴリの日本人、その後』
金纓『チマチョゴリのクリスチャン』


 

                       ホームに戻る                     
                           

MAIL to WebMaster